迷う、見失う。それでも何かを見つけたい。

東京から逃げるように地元に帰ったメンタル弱めの迷えるとりひつじ

小山ゆう 雄飛を読んで

マンガワンで全巻一気読み可能な小山ゆうの雄飛を読み終わり、大団円で完結し、読者を満足させる納得の終わり方だったけど、自分には少し考えてしまうことがあった。

物語は峻堂という救いようのない悪人と、主人公雄飛による復讐が軸になっていて、復讐に及ぶだけの強い主人公の思いを読者に共感させて、それが果たされた時に爽快感を感じられる。

全ては峻堂という極悪非道がいることによって、反対の正義側が輝くものだった。

考えてしまうことは、正義とは悪とはなにか、腑に落ちないところがあるからだ。

倫理観の問題だと思う。

 

峻堂は本当に酷い奴で、主人公雄飛の母と姉を強姦し、殺害。まだ5歳だった雄飛はその現場を目撃する。戦争孤児だった雄飛は頼る人もおらず、1人で峻堂への復讐だけを望みに、戦後の荒れ果てた日本で懸命に生きる。防空壕で1人生活する雄飛はまち子という優しい女性と出会い、ここから雄飛に転機が訪れ、任侠の親分の養子に入り、プロボクサーと勉学に励む幸福な時を過ごせる。

ある日雄飛は峻堂の現在を知る。それは運命的に彼とほど近い場所にいた。そして峻堂は養い親である親分を殺し、更に雄飛の家族ともいえる組の連中を殺し、更に一番大事なまち子姉さんを始め雄飛の周囲の大事な人に危害を加えようとする。峻堂は絶対的な権力を手にしていた。その力に立ち向かう雄飛を応援せずにはいられないと思う。

 

ここで思うのは、峻堂は女を強姦し痛めつけることに喜びを感じる最低な男で、邪魔な奴は自分の手を汚さずに殺す冷酷で非道さも持つ、救いようのない悪といっても差し支えないのだが、自分は峻堂がこの物語で一番可哀想だと思えた。もちろん、無残に殺された何の罪もない人こそが本当の可哀想な存在なのだが、人の道に外れた生き方しか出来ない峻堂は根っからの悪人で、自分の欲望を満たすことしか考えていないため、雄飛の持つ親愛する仲間を持つ事が出来ないのが可哀想だ。自分のやりたい事を欲望のままにする事は悪い事だと思わない。ただその欲望が人を幸せにすることに向かうことなく、傷つけ貶めることに向かう生まれ持ってしまったのが可哀想だ。欲の方向さえ間違わなければ、峻堂は敵を作ることなく己の幸福を十分に享受出来る力があった。大多数が是とする世の中にあって、峻堂は異物でしかなかった。救いがあるとすれば、悪い事をしている自覚が全くないことだと思う。自分の行いに疑問を持ち反省しては、これまでの行いの非道さに精神崩壊してもおかしくない。それかもしかすると戦争という狂気が悪魔を育ててしまったのかもしれない。そうすと責任のありかは戦争の仕掛け人に向かい、峻堂のみを悪とは決めつけることも出来ないはず。これは多くの犯罪にも同じく思う。本当に悪いことなのだろうか?

 

もし自分が被害者になればまた違った考えを持つかもしれない。